メキシコで古代メソアメリカ文明について学ぶ

塚本憲一郎(日本学術振興会/青山学院大学文学部史学科 特別研究員)

 

16年間海外に滞在していた私の場合は、留学体験というよりもむしろ移住体験といったほうがいいのかもしれない。最初の8年間はメキシコの大学に留学し、次の8年間はアメリカの大学院へ進学した。つまり留学先からさらに別の国へ留学したのだが、今回はメキシコの留学体験について書こうと思う。

子供の頃から、考古学や古代マヤ文明に強い憧れを抱いていたが、親の強い反対もあって日本の大学では経営学部を卒業した。暗記重視の勉強が苦手だったのも、研究者になる夢から遠ざかる理由だった。しかし、大学4年の前期から3年間、阪神淡路大震災の復旧工事に携わったのをきっかけにして自分の人生を見つめ直し、夢だった考古学者への道を思い返すようになった。それでも、その時はまだ、まさか自分が本格的に考古学を勉強するとも、できるとも思っていなかった。当時の私はただ周囲に流されながら生きる典型的な日本人青年で、

「たいして勉強もできない私には、そこそこの人生しか待っていないだろう。」

と思い込んでいたのだ。

それでも、何とか現状を変えようと、社会人1年目に有給休暇をとってメキシコへ旅行した。スペイン語など全く話せなかったので、メキシコシティーにある日本人宿に泊まった。そこには日本語が話せるメキシコ人オーナーがいて、「本当は、考古学者になってマヤ遺跡を発掘するのが夢なんだよ。」、と本気とも冗談ともとれない話をすると、親切にも「知り合いにメキシコ国立人類学歴史学大学(通称エナ、ENAH)の考古学部に通っている日本人がいるから紹介してあげる。」とわざわざその人をホテルに呼んでくれた。その人に会い、ENAHとはどういう大学か詳しく説明してもらう中で、一番の魅力的だったのは、入学試験さえ突破すれば外国人でも無料で授業が受けられるという話だった。

それから1年後、どうしても夢を捨てきれなかった私は、12月に会社を退職してその1か月後に再びメキシコの地を踏んだ。メキシコに到着した翌日にはENAHを訪れ、どのような手続きが必要なのかを事務の人に聞こうとした瞬間に、ある重要な事実に気づいた。

ENAHの入試よりも、まずスペイン語だろ。」

今から考えれば当然のことなのだが、当時はENAHの入学ばかりに気をとられていたので、スペイン語の習得に関しては頭からスッポリ抜けていた。ボディーランゲージを駆使して、入学手続きを紙に書いてもらうと、どうやら10か月後に入試があるそうだ。「英語すら苦手な自分が、果たして10カ月でスペイン語をマスターできるだろうか。」と、急に不安になってきた。

今さら日本に帰るわけにもいかず、とにかくスペイン語学校に通うことにした。メキシコシティーは、人口2000万人以上を有する世界最大の都市なので、スペイン語学校も充実している。すぐに手続きをして通い始めたが、1週間で嫌になってやめてしまった。なぜかと言うと、クラスには日本人が8割を占めていて、会話のほとんどが日本語だったのだ。この環境ではとても10カ月後の入学試験には間に合わない。

どうしようかとホテルで悩んでいるところ、ちょうどグアテマラから帰ってきた旅行者に出会った。その人によると、グアテマラの美しい古都として知られるアンティグアという町は、低料金でスペイン語の個人授業が受けられるそうだ。さらに担当になった先生は、超スパルタ先生だったとのこと。その先生はとても優秀だったのだが、本格的にスペイン語を学ぶ気が無かったその人には苦痛だったらしく、途中で逃げだしたと言うのだ。

「その先生しかいない!」、そう思った私は、その日すぐに長距離バスに飛び乗りアンティグアへと向かった。教えてもらった学校を探し出し、ビクトル先生を見つけると、ちょうど休憩時間で新聞を読んでいた。そこで手に持っていた辞書を使いながら、10か月後の入試について彼に話すと、

「そんなの無理に決まっているだろ。」

と笑い飛ばされてしまった。それでも袖にしがみついて、何とかして欲しい、と泣きついた。結局、嫌々ながらも引き受けてくれたビクトル先生は、私の辞書を使って単語を指で示しながら、

「これから毎日朝4時に起きて走れ。」

そう私に伝えたあと、読みかけの新聞を再び広げてそれ以上は聞く耳を持たなかった。

わけがわからなかったが、「ここまで来たら彼を信じるしかない。」、そう思った私は、翌日から毎朝4時に起きて真っ暗なアンティグアの街を走った。ランニングのあと、学校までの時間はひたすら単語を覚え、学校では午前7時から夕方5時までビクトル先生の集中講義を受けた。全く理解できない新聞を大声で読まされたり、卓球をしながら会話をさせられたりと、どんな状況でも一日中スペイン語を使う生活が始まった。それでも、これまでの人生には無かった自主的な勉強の姿勢に加えて、会社も辞めて失うものも無くなり吹っ切れたせいか、日々実感できるほどにスペイン語を吸収し、1か月後には日常会話に困らないまでなっていた。今から考えると、毎朝走ることによって、長時間の勉強にも耐えられる体力がついたのもしれない。

4ヶ月後、日常会話に自信を持った私は、アンティグアを後にして、再びメキシコシティーへ戻った。ところが、ENAHの入学試験の前に1ヶ月間の仮講義に参加すると、全く授業についていけない。それもそのはず、私が学んだ日常会話と大学レベルのスペイン語には、大きな差があったのだ。さらに、周りはすべてネイティブの学生だったので、担当の先生方も私に遠慮してゆっくり話すようなことはしなかった。それでも人は追いつめられると信じられない力を発揮するのを震災復旧工事から学んでいた私は、講義用のテキストを注釈も含めて丸ごと暗記した。そして寝る暇も惜しんで勉強した甲斐もあり、奇跡的に倍率3倍の入学試験に受かった。

メキシコ国立人類学歴史学大学(ENAH)はその名の通り、人類学に特化した大学だ。学部は考古学、形質人類学、社会人類学、民族学、民族歴史学、歴史学、言語学の7コースに分かれている。この先の説明は、私が在籍していた当時(19992006年)を反映しているので、現在とは状況が異なるのを予め考慮していただきたい。

考古学を勉強できる修士・博士課程は、メキシコシティーのメキシコ国立自治大学(通称UNAM)にもあるが、メキシコシティー内に学士課程の考古学を学べる場所はENAHにしかなかった。日本の総合大学やメキシコにある他大学と比べると、カリキュラムも大きく異なるのがENAHの特色だ。例えば、ENAHは授業だけで9学期間、つまり4年半ある。1コマの授業は4時間あるため、アメリカの大学院と比べても、1回の授業で学ぶ量は遜色ない。私が入学した当時の考古学部は、最初の学期で必須の4コマ(考古学入門、人類学入門、編集ワークショップ、英語I)を履修しなければならなかった。その中で、一コマまでも落とすと即退学になる。

さらに4年半の授業に加えて、6か月以上の社会奉仕活動(研究室での無償の遺物分析など)、授業以外に2か月以上の野外調査経験(実際には2年以上)または6か月の分析経験を経て、はじめて卒業論文を書く権利が与えられた。卒業論文も一部の人を除いて、ほとんどの学生が文献ではなく自分の調査で集めたデータを基に執筆していた。卒業論文を提出し、最後に一般公開される口頭試験を突破すると、メキシコ政府から考古学者としての証明書(免許証のようなもの)が発行され、メキシコ国内での考古学プロジェクトを指揮する権利を与えられた。言い換えると、ENAHは大学というよりも、考古学者または人類学者養成所なのだ。

苦労話をするのはあまり好きではないが、スペイン語に慣れるまでの最初の2年間はとにかく大変だった。特に、1年目は、授業の課題として出される文献やレポートをこなすために、ほとんど寝た記憶がない。しかも、1コマでも落とすとはじめたばかりの考古学人生は、そこで終了だ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、当時の私にとっては人生そのものが終了するのと同じだった。実際に、1学期が終わった時点で、100人いた考古学部の新入生が60人まで減った。家で寝るのは130分くらいで、あとは往復のバスで睡眠時間を確保した。途中から効率はともかく勉強量だけは世界の誰にも負けていないという変な自負も沸いてきたほどだった。

サラリーマン時代に貯めた貯金が次第に無くなっていくのに反比例して、買わなければならない本が増えていった。当時のENAHにある図書館は蔵書数も少なく、ほとんどが貸し出されていたので、自分で買わなければならなかった。家賃を浮かすために、治安のよくない地域で月5千円のアパートを借り、本を買うために2日くらい食べるのを我慢して、空腹をごまかすために枕を抱えながら寝たこともよくあった。ただ空腹になると人は眠れなくなり、結果として勉強する時間は増えていった。

スペイン語ができなかった頃の学生生活で最も救われたのは、親切な同級生たちと親身に指導してくれた教授陣だった。メキシコの陽気で親切なお国柄にも救われた。当時のENAHで日本人が珍しかったのも手伝って、大学の教授や同級生に加えて、先輩学生から売店のおばさんまで、とても親切にしてもらえた。彼らの友情や援助が無ければ、とっくに退学していたことだろう。

話を授業内容に戻そう。ENAHでは最初の学期を生き残ると、次から毎学期ごとに野外実習が行われた。野外実習は、遠足のようなものもあれば、密林のジャングルでの測量や崖に登って植物を採集するといったハードなものもあった。それらをこなしていくうちに、ENAHの学生たちは精神的にも肉体的にもタフになっていった。第一線で活躍する多くの考古学者に出会えるのも野外実習の大きな魅力だった。

それほどの機会を与えられるENAHでも、学部の1年目から考古学プロジェクトに参加できる学生はほんの一握りだった。運がよかった私は、入学後しばらくしてベラクルス州北部にあるエル・タヒン遺跡周辺プロジェクトに参加でき、3年目にはある程度の発掘経験を積んでいた。そのプロジェクトでは、メキシコで発掘できる喜びを感じていたが、同時に古代マヤ文明も私の心をとらえて離れなかった。

マヤ遺跡での発掘に憧れ続ける日々を送りながら、ENAHでの学生生活も3年目になった。その年に、測量と踏査の2科目を担当していたハビエル・ロペス教授と運命的な出会いを果たす。彼はENAHの学生の中で絶大な人気を誇っていた教授で、彼の授業を履修するには朝5時から受付に並んで履修届を出さなければならないほどだった。さらに、彼は古代マヤ文明を専門にしていた。始発のバスに乗って朝早くから並んだ甲斐もあり、なんとか授業を履修できることになった私は、さっそく彼の研究室へ挨拶に行った。

「日本から来た憲一郎です。測量と踏査のどちらの授業も履修するのでよろしくお願いします。」

ENAHでは珍しいアジア人の留学生なので、激励の声をかけてもらえるとスケベ心を持って挨拶した私だったが、ロペス教授の返答はあっけないものだった。

「あ、そう。」

これは本人に後から聞いた話だが、ロペス教授は当時の私にまったく期待していなかったそうだ。悔しかった私は、彼を何とか見返してやろうと、この2科目に全神経を集中させた。

大学の横にあるクイクイルコ遺跡での10日間の測量実習を無事に終え、いよいよロペス教授が指揮するマヤ遺跡の野外実習がはじまった。その当時、彼はユカタン半島南東部に位置するキンタナ・ロー州南部のマヤ遺跡群を調査していた。

ひとことで表すと、ロペス教授の野外実習はサバイバルだった。いつまでギブアップせずにいられるかが、その後の彼との関係を決定づけた。遺跡から遺跡へと移動する彼のマッピングプロジェクトでは、キャンプハウスを設置できず、いつも遺跡近くにある村の空き家を借りていた。当然、そこには布団やベッドは無く、同級生たちとコンクリートの床にクッションとして段ボールを置き、その上に持参した寝袋を敷いて雑魚寝した。現場では、毎朝4時に起床し、ビスケットなどの朝食を簡単に摂ったあと、遺跡のあるジャングルへと移動する。そこで吠え猿の声を聞きながら測量機を立て、うっそうと茂る密林の闇に朝日が入り込むのを待った。日の出から日暮れまで測量し、同時に遺構や遺物を記録していった。それで終わればいいのだが、その後にデータ入力が待っていた。入力し終わるのは、いつも夜中の12時。その後、計測ミスが無いのを確認してからようやく寝袋にもぐり込めた。しかし、初心者である私たち学生のデータはどこかにミスがあり、その部分をチェックしているうちにしばしば朝を迎えた。

そのような実習生活を1ヶ月も続けると、蓄積した疲れのためか、学生の中に病人や脱落者が続出した。ある日、学生のほぼ全員が軽い食中毒にかかった。高温多湿な現場なので、前日の晩御飯が腐っていたのかもしれない。その中で、なぜか私とロペス教授だけは無事だった。現場慣れしているロペス教授はともかく、私の場合は、震災復旧で突貫工事の激務に慣れていたのがよかったのかもしれない。何よりも憧れのマヤ遺跡で調査できる機会を与えてもらえた私は、嬉しくて一瞬でも現場を離れたくなかったために、アドレナリンが出た軽い興奮状態によって病気にならなかったのかもしれない。

いずれにせよ、他の学生たちがキャンプハウスで体調を整えている数日は、ロペス教授と二人きりで日の出から日没まで調査した。学生に遠慮する必要の無くなったロペス教授は、さらに調査のスピードを上げていった。他の学生がいるときは1時間のあった昼食時間も、二人きりになると5分しかもらえなかった。村に帰ってからもデータの分析や議論を重ねるうちに朝になった。そして、2か月の実習が終わるころ、ようやくロペス教授が私を認めてくれた。

 

KENYJAVI

2001年にキンタナ・ロー州で行われた踏査実習でのロペス教授と筆者。メキシコから1300キロの運転とジャングルでの走行に耐えたフォルクス・ワーゲンの無事を記念して。

 

4年度になると、ロペス教授から助手として迎えてくれ、昨年学んだ測量と踏査の授業を教えることになった。不安もあったが、CADなどの建築ソフトが使えた私は、ENAHに新しい風を吹き込むことができるとも思っていた。それから3年間、助手として学生を指導しながら10を超える遺跡群の調査に従事した。メキシコ人学生たちを教え、彼らのレポートを添削することで、私のスペイン語は飛躍的に伸びた。また、ロペス教授の紹介でベカン遺跡考古学プロジェクトにも半年間参加し、建造物の発掘・修復も経験した。そこでは、日本での復旧工事の経験が大いに役立った。その過程で、ロペス教授が調査していた遺跡の一つ、キンタナ・ロー州南部にあるエル・レスバロン遺跡の調査を担当し、発掘も含めたすべてのデータを使わせてもらい、卒業論文を書きあげた。

メキシコではもう二つの大きな出会いがあった。一つ目は、メソアメリカ考古学を目指す3人の同世代日本人学生たちだった。当時、アリゾナ州立大学の博士課程に在籍していた村上達也氏、メキシコ国立自治大学(UNAM)の人類学研究所の博士課程に在籍していた古手川博一氏と嘉幡茂氏との出会いが私の人生の大きな支えになった。彼らはサラリーマンから転職して考古学を勉強している私を偏見の目で見るどころか、日本考古学の調査・分析方法やアメリカの理論を、自分たちの研究時間を削ってでも教えてくれた。研究について朝まで語り明かしたこともあった。研究に行き詰った時にも、いつも励ましてくれた。ロペス教授やENAHの人たちと同様に、彼らの存在抜きには今の私は語れない。そして、彼ら3人の誰か一人が欠けていても、私の研究人生は今とは大きく異なっていたに違いない。

 

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2005年メキシコのトラランカレカ遺跡にて。左から古手川氏、嘉幡氏、村上氏、筆者。

 

もう一つの出会いは、青山学院大学の安村直己先生だった。安村先生とはENAHに入学した1年目に、偶然メキシコの移民局でお会いした。それ以降、自分の学生でもない私にメキシコでの調査時間を割いて、日本の歴史学や文化人類学を教えていただくのみならず、大学院への進学相談にも乗っていただいた。私が貧乏なのを知ると、たびたび日本から論文や本を送って励まし、日本における歴史学の深みを教えてくれた。安村先生からのアドバイスや、送っていただいた書籍は、その後の私の研究に大きな影響を与えている。

子供の頃からの夢を実現でき、信頼できる友人たちや教授たちに囲まれながら充実した生活を送っていた私だったが、ロペス教授の助手になる前後から卒業後の進路について考えるようになった。「このままメキシコの大学院へ進学してもいいのだろうか。」「外国人である私は、メキシコにどのような貢献ができるのだろうか。」「このまま古代メソアメリカ文明だけを勉強し続けてもいいのだろうか。もっと広い人類史全体を勉強すべきではないのか。」また、優秀であるにもかかわらず、家庭内の経済状況やプロジェクトに参加する機会に恵まれなかったために考古学を断念したENAHの学生たちを目の当たりにし、「彼らのような学生たちに私ができることはないのだろうか。」と考えるようになった。次第にそのような思いが私の頭の中を占めるようになった頃、グアテマラの学会でアリゾナ大学の猪俣健先生と出会った。そして、猪俣先生との出会いが私にアメリカへの大学院進学を決心させた。

海外での留学はさまざまなチャンスを与えてくれる。しかし、ただ留学すればいいというものではない。明確な目的をもって留学してはじめて道は開ける。そして、失敗を恐れずに努力し続けていれば、同じような志を持った人たちときっと出会う。その一つ一つの出会いを大切にすることが、留学において最も大切なことだと私は思う。