アメリカでアンデス考古学を学ぶ

松本雄一(山形大学人文学部)

 

この文章は、20118月発行の古代アメリカ学会会報に寄稿したものを若干改稿したものです。私が留学を志す方に伝えたいことは当時と今であまり変っていません。ただその後日本で大学の教員となって以来、考古学における大学院留学の情報というものが思ったより少ないことに気づきました。そこで、考古学を専攻する場合に重要な点を私の経験と友人からの情報に基づいて補足しました。

2002年ごろ、私は漠然とアメリカに留学しようと考え始めました。当時私が所属していた研究室には、アンデス考古学を専門とする先生がおらず、海外へ留学して博士号を取ることを強く勧められたためです。また、年齢の近い松本剛さんや村上達也さんがアメリカでの留学を成功させていたことが、留学先をアメリカに絞る決め手となりました。しかし、この時点ではどこを受験すべきか決められるほどの知識もなかったため、アメリカの考古学事情にお詳しい関雄二先生にご相談し、イェール大学のリチャード・バーガー博士を紹介していただきました。そのおかげで、2002年夏に運よくペルーでバーガー博士とお会いすることができたのですが、私の英語は全く通じず、スペイン語でかろうじて意思疎通が出来たという有様でした。ただ、私が彼の中心的な関心である形成期を専門にしていたこと、アメリカでも評価の高いクントゥル・ワシの調査に参加していたことは彼の関心を引いたようで、英語を何とかしてから是非大学院を受けるようにと薦められ、非常にうれしかったことを覚えています。後で聞いたことなのですが、この「指導教官をお願いしたい先生に実際に会って、自分の研究を説明する」という行為は、大学院の留学に際して必須のことでした。最低でも5年以上は付き合うことになる人間を選ぶわけですから、見ず知らずの人間を受け入れるということはあまりしないようです。私の場合この面談が上手く行ったとは言いがたいのですが、その後大学院への出願に当たっては、大貫良夫先生、加藤泰建先生、関雄二先生、西秋良宏先生という錚々たる方々に推薦状をいただき、おそらくはこれが決め手となって無事に入学を許されました。

2004年の9月に生まれてはじめて渡米した当初こそ、歴史ある大学キャンパスの美しさに驚き、町の風景を楽しんだりもしましたが、そんな外に向ける余裕があったのは最初の一週間だけで、授業が始まると、その準備のほかには何もできない日々が続くようになりました。大量の課題は読みきれず、ディスカッションでは何を議論しているのかすら分からず、まったく発言できないという日々が続きました。平均睡眠時間も4時間を割るようになり、心身ともに完全に追い詰められていました。こんな状態の私にとって、指導教官であるバーガー博士と同期の友人たちが理解を示して助けてくれたことは非常に心強く、今でも感謝しています。バーガー先生の下には、カナダからの留学生で私と専門を同じくする、ジェイソン・ネスビットが同期として学んでいましたが、先生は週一回、2時間ほどただ3人でリラックスして話すための時間をいつも取ってくれていました。その時間に限ってはスペイン語で話すこともあり、私も議論らしきものに参加することができたため、多少は救われました。その毎週のミーティングが実は、英語が話せず追い詰められている私を助けるためのものであることに気付いたのは、ずっと後のことでした。それ以来ジェイソンは私の親友であり、今に至るまで言葉では表せないほど助けてもらっています。何とか最初の一年を乗り切ると、段々と授業にも慣れ、議論にも参加できるようになって来ました。

イェール大学の人類学部において考古学部門は比較的小さかったのですが、それゆえ教授と学生の距離が近く、学生同士も仲良しでアットホームな雰囲気がありました。また数は少なくとも教授陣は充実しており、バーガー先生の他にも、西アジア考古学の大家であるフランク・ホール、若手マヤ研究者のなかでも注目を浴びていたマルチェロ・カヌート、アフリカ研究で独自の複雑社会論・都市論を展開するロッド・マッキントッシュなどの教授陣が在籍しており、プログラムの中身は非常に濃かったと言えます。学生の数もそれほど多くはないため、授業によってはほぼマンツーマンになってしまうこともあり、今考えると贅沢な話でした。特に印象に残っているのはバーガー先生のアンデス形成期のゼミで、学生は私とジェイソンのみで、古典から最新の論文まで片端から読み、議論をしていきました。私は日本人研究者が日本語で発表していたデータを読むことができたため、偶にそういったデータを使って先生に反論を試みたりしていました。また、バーガー先生とマッキントッシュ先生が共同で教えた複雑社会の理論に関するゼミは、それまである種プロセス考古学の枠組みにとらわれていた私にとってのアンデス研究の理論的意義を覆し、今目指している研究の方向性を決定付けることになったといえます。考古学の他にも積極的に社会人類学の授業を取るよう心がけていましたが、特にエンリケ・マイヤー先生の授業が印象に残っています。マイヤー先生は私とジェイソンだけのために、アンデスの民族誌に関するゼミを開いて下さいましたが、これは授業とそこから脱線していく雑談の双方が楽しみでした。ジョン・ムラ、ジョン・ロウ、トム・ザイデマという3人の巨人を直接に知る彼の思い出話は、まさにアメリカにおけるアンデス研究の形成過程の雰囲気を生々しく感じさせてくれるもので、強烈な個性のせめぎあいが学問の一分野をどのように作り上げていったのかを垣間見せてくれました。

2005年の夏休みは、大学から援助を受けてペルーを広く旅行し、博士論文のための調査地を探して回り、ペルー中央高地南部のカンパナユック・ルミ遺跡を候補として選定しました。しかし、翌年にその調査のために応募した研究費には一つを除いて全て落ちてしまいました。アメリカの大学院では、取った研究費の額というものがシンプルにその学生の力を示す指標となります。このときの研究費の申請であまり良い結果を残せなかったことは、後々までコンプレックスとなって私を苦しめました。後で考えてみると、この時期というのは、まさに同期の学生が天国と地獄に別れていました。研究費が取れなければ次の年に調査に行くことは不可能であり、今度はその間どのように生活して行くかが問題となります。また、博士論文のための調査が一年間できないわけですから論文の執筆もそれに応じて年単位で遅れることとなります。奨学金の年限は決まっているわけで、一年遅れるということは、余分な一年間の生活費を大学内の仕事で何とかまかなわねばならないわけです。大学で十分な生活費を稼ぎながら博士論文を執筆するというのは並大抵のことではありません。研究費の獲得はその後の明暗を分ける一つのターニングポイントであり、私はかろうじて踏みとどまったという格好でした。

その後2007年から2008年にかけて行ったカンパナユック・ルミ調査の詳細に関しては別稿に譲ることとし、ここでは割愛します。ただ一つ面白かったのは、発掘方法に関してバーガー先生と私の間に意見の食い違いがあったことでした。先生は方形の発掘区をいくつか開けて、その結果に応じて発掘区を拡張するべきであるというアドバイスをくれましたが、私は最初から、複数の建築をつなぐ長いトレンチを遺跡の軸に沿って開けるという、クントゥル・ワシの発掘で学んだ方法を採用しました。その後、先生はリマから私の調査を訪ねてきてくれたのですが、その時に「日本式の発掘だな、でもお前が正しい。」と言われ、何とはなしにうれしい気分になったのを覚えています。留学当初は捨て去ろうとした日本での経験が、4年を経て私を救ってくれたことになります。

その後、2009年には調査データの整理、研究費への応募と投稿論文の執筆を重点的に行い、2010年は博士論文の執筆に専念しました。とにかく朝から晩まで書き続けた日々でした。また2009年には念願であった国立科学基金(NSF)の研究費を得ることができ、一つの自信になりました。博士論文は章を書き上げるたびに、指導教官であるバーガー先生に読んでもらってミーティングを繰り返すのですが、1回でOKが出ることは絶対になく、3回、4回の書き直しが普通でした。ダメだしの度にジェイソンにも読んでもらい、2人のアドバイスを取り入れて書き直すという日々が続きました。気がつけば、2人の手で真っ赤に添削された草稿の山は段ボール箱2つ分になり、短めにしようと思っていた博士論文も600ページを超えていました。最後まで周りの助けを借りながら、何とか201010月に博士論文を提出し、12月に博士号を取得することができました。アメリカに来た日から6年と3ヶ月目でした。

考古学で博士論文を書く場合、大まかに分けて2つの方法があります。一つは、指導教官や他の研究者のプロジェクトに参加してデータを使用させてもらうこと、もう一つは自らがプロジェクトリーダーとなって調査を立案・実施し、そのデータに基づいて博士論文を執筆することです。どちらにも一長一短があるのですが、私の指導教官の方針は後者でした。後者の場合、調査許可の取得から発掘後の分析まで自分で行う必要があるので、費用、時間ともに負担が多きいのですが、その一方でデータは全て自分のプロジェクトのものであり、他の研究者との調整が必要なくなります。また、当然ですが、現地調査に必要なスキルを一通り身につけることができます。振り返ってみると、博士号を取得した後に独り立ちできるようにということを念頭に置いた指導だったのだろうとありがたく思っています。ただ一方で海外で自分のプロジェクトを行うというのはやはり大変であり、私の指導教官の学生は博士課程修了まで8年程度は費やすのが常でした。私の場合は比較的短期間で修了したことになりますが、これは過去に日本調査団に参加した経験からフィールドワークが極めてスムーズに進んだことが大きかったといえます。

最後にもう少し一般的なことも述べておきます。博士号取得のためのアメリカ留学には当然リスクもあります。特に言葉を話せないストレスは私が思っていたより遥かに厳しいものでした。また、大学院の競争の中では、一度日本でそれまでに学んだことを完全に解体して、アメリカのやり方にあわせて構築しなおすという作業が、学問に関わるあらゆるレベルで必要になります。この作業はそれまで自分が積み上げてきたことを否定するようなものですから、精神的に非常に辛いものです。実際には日本で学んだことは無駄であるはずがなく、アメリカの大学院においても自分の武器となる場合が多いのですが、厳しいプレッシャーにさらされる留学初期においては思いもよらないことだろうと思います。また、大学院生をめぐる状況は大学ごとに大きく異なります。たとえばお金の面でも、私立大学であるイェール大学では博士課程の学生全員に、授業料の免除と生活費の支給が保障されていましたが、レベルの高い州立大学などでは、生活費から研究費まであらゆる点が厳しい競争であるとも聞きます。ただこうした点を考えても、アメリカの大学院にいるメリットというのは大きなもので、充実した図書館をはじめとする情報リソース、学会でできる人的ネットワーク、また短期間で効率よく大量の知識を得るために組織された大学院の教育プログラムなどは、日本ではなかなか得られないものです。また、昨今の日本の大学院生を取り巻く厳しい経済的状況を考えた時に、アメリカの大学院の奨学金、あるいは学内で働いて学生を続けることのできるシステムは非常に魅力的であり、それだけでも選択肢として考慮する価値があるといえるでしょう。

以上、私の経験をもとに、博士号取得を目的とした大学院留学について書かせていただきました。この文章がアメリカ留学を志す若い会員にとって少しでも役に立つなら望外の喜びです。